千人塚

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なぜ千人塚っていうの?

飯島町七久保に、「千人塚(せんにんづか)」と呼ばれているところがあります。
七久保の集落から山に向かって少しのぼったところです。
現在は「城ヶ池(じょうがいけ)」という溜め池があり、
アルプスの景観、水面を渡る風、鳥の声、
春には桜がみごとな、心洗われる景勝地です。

この「千人塚」ですが、どうしてその地名がついたのか・・・。
じつは、こんな言い伝えが残されています。

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昔、千人塚の南東に、上沼氏という武士が城を構えていた。
その城は「北山城」と呼ばれている。
上沼氏は、船山城主=片切氏の家臣だといわれている。
船山城は、ここから10kmほど南、松川町の北端に位置する。
さて、
この伊那谷が戦国の動乱に巻き込まれたのは、
北から甲斐の武田氏が攻めてきてからだ。
しかたなく、片切氏も上沼氏も、近隣の武将とともに武田氏に下った。
それから約30年後の天正10年(1582)、
今度は、南から、織田氏が武田氏を討つため伊那谷に兵を進めてきた。
このとき北山城も攻められて落城し、上沼氏は滅んだという。
戦死したり自刃したりした敵・味方の遺骸や武器を埋めて築かれた塚が、
千人塚と呼ばれるようになった。
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こんな言い伝えです。

千人塚から南東に300m離れた場所に
北山城という城があったことは、
今に残る地形から確認されています。
竪堀の跡も残っています。

ちなみに、戦国時代の城は、
天守閣を備えたような立派な建物はありません。
しかし、自然の地形を利用したり、堀や土塁を築いて
敵から攻撃されにくいよう、堅固に造られています。

織田軍が伊那谷に攻め込んだことも確かですが、
そのときに北山城が落とされたとか、
この七久保で合戦があった史実は、
文献史料や考古資料などからは認められていません。

織田軍の伊那侵攻の概略は次のようです。

1582(天正10)年2月、武田勝頼を討つため
織田信忠(信長の嫡男)の軍勢が伊那谷に攻め入りました。
2月14日に飯田城、16日には大島城(今の松川町の台城公園)が落城し、
先陣は飯島へ進みました。
この飯島というのは飯島町本郷の飯島城のことです。
このあと、3月1日に飯島城を出陣して高遠城の攻略を開始し、
翌2日に落城させました。
3月11日に勝頼が自殺してこの戦いは終結します。

織田軍の伊那谷侵攻に際し、
飯島城主の飯島氏は、
ほかの武士たちとともにはじめ清内路口で守りにつき、
つぎに大島城に加勢しましたが
織田軍の攻撃を受ける前に敗走し、
高遠城で最後の決戦に備えました。
伊那谷屈指の規模を誇る飯島城は無抵抗で落ちたものと思われます。
本郷の町屋は焼かれ、飯島氏の氏寺=西岸寺も灰燼に帰したと言われています。

信忠軍が高遠城を落とした後、
信長も3月13日に伊那谷に入り、14日に浪合で勝頼の首を実検、
15日に飯田に陣を張り、17日に大島を通って飯島城に陣取っています。
18日には高遠へ、19日には諏訪の法華寺に入って陣を張りました。

以上のように、
知られている織田軍の伊那谷侵攻のなかには、
北山城のことや上沼氏のことは出てきません。
それではなぜ、このとき北山城が落城し、
戦死者や武具を埋めて塚が築かれたという伝説が残っているのでしょう。

事実であるとすれば、
信忠軍の先陣が飯島城に入った2月16日から、
高遠城へ出陣した3月1日までの間、ということになるでしょう。
西岸寺や、本郷の町屋が焼かれたころ、七久保もひどい攻撃を受けた
という解釈です。

千人塚の名前の由来を考える材料には、
冒頭に記した伝説のほか、
「千九人童子」と刻まれた石碑にまつわる言い伝えがあります。

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乱世が終わり、江戸時代となった。
あるとき、千人塚のふもとの七久保村で奇病・変災が続いた。
これは、霊のたたりだという。
天明年間(1780年代ごろ)に法会を営んだと言う。
さらに、
天保15年(1844年)に「千九人童子」と刻んだ石碑を建て、その霊を祀った。
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その石碑は、現在も、
城ヶ池の南東の、小島のように突き出た塚に立っています。
石碑の由来については、こんなことも言われています。

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天保年間(1830-44)に、
千人塚の直下、七久保の北村地域で赤痢が流行した。
そのとき、現在松川町の部奈(べな)の巫女が来て、
ここに葬ってある霊のたたりだというお告げがあった。
そこでこの碑を建てて供養した。
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江戸時代にこの地域で起こった災いや流行病は
かつてこの地で戦死したり自害したりして埋められた霊の仕業だ
と解釈されるわけです。

「千九人」というのは正確な数ではなく、千も九も「大きな数字」ですから、
「大勢の」ということを表しているのでしょう。
童子」は、「子ども」を指す以外に、
酒呑童子など「鬼」の名に遣われたり、「神仏」の呼び名にもあります。
「千九人童子」は、合戦で亡くなった大勢の仏の象徴ということでしょう。

この地名の由来や言い伝えの成立について、考えられることは次の3つでしょう。

【①織田軍の北山城攻めは史実】
飯島城が占拠されたとき、
ほかの武士たちはみな高遠城にこもっていたが、
北山城の上沼氏は在城していて、抵抗する構えを見せていた。
そこで、織田軍は七久保にも攻撃の手を伸ばした。
そのとき、上沼氏やその家臣などが大勢殺されてしまった。

【②江戸時代の巫女の創作】
かつてこの地域の住民たちが恐怖におののいた織田軍の伊那谷侵攻は
260年たった天保年間にも語られていた。
そこで、巫女は疫病の原因をこの話に結びつけて神のお告げとした。
つまり、巫女の作り話が千人塚の名前の由来になった。

【③江戸時代の村人の当て推量】
巫女が単に「この地に眠る大勢の霊が災いを起こしている」
と神のお告げを村人に伝えたところ、
村人は、
語り継がれていた織田軍の伊那侵攻はこの地にも及んでいたのでは?と勘ぐり、
いつしか北山城で合戦があったという話が伝えられるようになった。

皆さんはどうお考えでしょうか?

<2014.3.10訂正>